第8回研究会〈印象記〉                                渡辺喜一郎

 

 第8回研究会の内容は、研究発表一つ、講演一つ、論文合評会、及び総会であった。〈印象記〉の前に、発表内容、講演内容と関連するのだが、筆者自身のことについて触れておく。

 既に二十年以上前に石川淳の祖父石川省齋について調査し、当時古本屋で彼の編著を手に入れたときの感動は未だに鮮明に脳裏にある。また、当時台東区図書館でだったと思うが、『浅草人物史』(後藤末吉著、大正二年、実業新聞社刊)の中から父斯波厚の名を発見したときも同様であった。厚は名士として扱われていた。その後も折にふれ、様々なジャンルの“人物ツール”事典などで石川氏や斯波氏のことを調べるが、杳として判明しない。「浅草名士」であった父については、それ故に調査を怠っていく。また、石川は小説、エッセイの中で両親をモデルとしたこと、或いは「父」「母」について語っていることは皆無といっていい。このことの謎は依然として深まるばかりであった。一方、当時二、三度お会いした小田切秀雄さんからは、石川は伝記的事項と無関係な作家だよとも釘を刺されてもいた。

 作品研究もしないではなかったのだが、校務などに忙殺され、年譜的事項などの記録メモのみに終始したのがこの十数年であったということか。

 

〈印象記〉

「石川淳と実父・斯波厚に関する伝記的事項の調査報告」(帆苅基生氏)は、父斯波厚の、先に述べた「人物史」以降の「調査」報告である。昨年3月の第五回研究会で「途中報告」を行い、既に注目されていた。内容は、斯波厚が専務取締役だった共同銀行の破綻、彼の詐欺横領罪による逮捕(大正五年)とその裁判経過の新聞記事報告。更に、彼の「瓦斯疑獄事件」に関わっての逮捕(大正一〇年)記事と経過説明があった。筆者は些かショックであった。これらの事件と石川淳の年譜的事項が時期的に見事に符合する。帆苅氏の「検討事項」(方向性)は、これらの事件と石川淳の「作家像」及び「作品への投影」へと向う。

 事件そのものは、“政敵”にはめられたものであったかもしれないし、古今東西、政財界にはありがちな事ではある。しかし、それが子息淳には相当なダメージを与えたであろうことは年譜的事項が語っている。今後の更なる調査研究が待たれる。

 講演「石川省齋―幕末・明治期における一知識人の生き様―」(渡辺滋氏)については、歴史研究者による講演ということもあって期待が大きかった。既に渡辺の論文によって、石川省齋の新来歴の概要が明らかになってはいたが、この度は石川淳自身の省齋に関する発言、記述と照らし合わせながらの、歴史家らしい実証的な興味深い講演となった。特に資料として出された「『和学講談所御用留』にみえる石川〓【金へんに丸】太郎」など、菩提寺安閑寺などの近影、幕末の江戸中心部絵図(カラー版)などは、われわれにとって貴重で随分参考になるものであった。彼の研究、講演によって、省齋の来歴はほぼ解明されたといってよい。

 二人の発表、講演によって、伝記的研究が大きく前進したことは間違いないのだが、まだまだ未知なことが多い。例えば祖母(省齋の妻)のこと、母斯波寿美、兄武綱、他の兄弟らのことなども殆どわかっていない。石川淳という作家を文学史の上できちんと位置付ける上では、これらの調査研究も避けられないことであろうと思う。

 

 論文合評会では五本の論文が取り上げられた。恥ずかしながら筆者はこれらの論文を充分読んでいなくて殆どコメントできなかった。内容については省略する。

 

 総会では、次回第9回研究会では安部公房を取り上げること、講演に栗坪良樹さんを予定し、間もなく来日するウイリアム・タイラーさんにも参加依頼をすること、会場(青山学院)、会期(多分来年3月)などが話し合われた。

 

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