第11回石川淳研究会・印象記    杉浦晋

 

 第11回研究会は、宮ア三世氏による研究発表「太宰治「道化の華」における二つの語りのモード再考」と、論文合評会、総会という内容でおこなわれた。

 宮ア氏は、「道化の華」の語りを、まず「モードTからUにわたる語りの振幅」(引用はハンドアウトによる。以下同様)としてとらえた。氏によれば、「モードT」とは「一人称性を強く出して書」かれた「書き手の存在を感じさせる文」のことであり、「モードU」とは「一人称性を殺して書」かれた「三人称が用いられた地の文・会話文」のことである。そして、そもそもいずれの「モード」ともとらえがたい、両者が「癒着」(鳥居邦朗)したかのような語りによって、作品が語りはじめられていたことをふまえて、こうした語りを選択した作者は、いわば「モード」の行使による「モード」の峻別をではなく、「モード」の基盤自体の「相対化」をめざしていたのではないかと述べた。すなわち、「モード」の「癒着」を否定的にとらえるのではなく、そこに「書き手と書かれた文字という固定した関係を解体」しようとする、作者の積極的な意図をみいだしたのである。

 正直にいえば、発表の終わり近くまでは、これはメタフィクションや、自意識の文学や、物語への話者の介入といったようないいかたで、すでに研究史上、さんざん指摘されてきたことの、退屈な反復ではないかと思いながら、漫然と聞いていた。しかし、その終わりにおいて、作者と読者を媒介する「メタ言語」の機能について述べ、また質疑応答のなかで、その言及を言語学にかかわる知見によって正しく裏打ちしてみせた、本発表の前提たる氏の問題意識の一端に触れて、そうした印象はいささか変更を迫られた。

 氏は、おおげさにいえば、日本語による小説における語りにかかわる一般理論の構築をめざしているのではないか、たとえば、ジェラール・ジュネットがプルーストの作品に即しておこなったようなことを、太宰治の作品についておこなおうとしているのではないか、今回の発表は、もしかしたら、その一端のつもりだったのではないか、などと思われたのである。

 だとすれば、太宰の研究史への目配せが不足しているとか、語りの様態と物語内容とのかかわりがまるで閑却されているとかいった、本発表に触れた誰もが、ただちに思い浮かべるであろうような批判は、氏にとってはあまり意味がないであろう。「道化の華」研究、太宰治研究といった範疇を超えて、氏のまなざしは、いっそう遠い地平に向けられているようなのだから。もって、今後の氏の研究の進展が、強く期待された。

 論文合評会では、三つの論文について意見が交わされた。そのなかで、帆苅基生「【研究ノート】石川淳年譜考」があきらかにした事実の意義が、あらためて確認され、また若松伸哉「漂泊する〈わたし〉―石川淳「葦手」のなかの歌謡・家族―」については、石川と同時代の文学者との対比のさらなる必要性が指摘された。

 総会では、次回研究会の企画についての議論がなされた。そして、「太宰治スタディーズ」の会との共催を前提として、石川淳と太宰治とのかかわりをとりあげた企画を検討するという方向性が、全会一致で確認された。

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