←トップページ(目次ページ)

 

←石川淳研究会とは?

太宰治スタディーズの会・石川淳研究会 共催研究会 のお知らせ

(石川淳研究会 第12回研究会)     

            

太宰治スタディーズの会

石川淳研究会 運営委員会

 

太宰治スタディーズの会と石川淳研究会は、太宰治生誕100年を期して、太宰治と石川淳のかかわりをあらためて検証すべく、以下のとおり研究会を共催します。今回は、おもに1930年代の「文学場」における両者のふるまいを論点として、4つの研究発表と討議をおこないます。ご来聴も討議へのご参加も自由ですので、ふるってご参集下さい。

 

--------------------------------------------------------------------------------

 2009年9月19日(土) 13:30〜

   埼玉大学・東京ステーションカレッジ

(JR東京駅・八重洲北口/日本橋口、地下鉄大手町駅至近、サピアタワー9階)

  

・JR東京駅(日本橋口)からの交通アクセス

http://www.saitama-u.ac.jp/coalition/tsc-guide.html

・サピアタワー及び東京ステーションカレッジへの入室について

     (当日はサピアタワー3階に受付を設置し、入室をご案内いたします)

http://www.saitama-u.ac.jp/coalition/images/tsc-enter.pdf

 

--------------------------------------------------------------------------------

 

1)研究発表

昭和十年前後の新進作家

──石川淳/太宰治と『作品』         松本和也(信州大学)

「狂言の神」をめぐる〈生‐活〉の「間抜け」

――〈太宰治〉と芥川賞/〈芥川〉像の諸圏域  小澤 純(早稲田大学大学院修了)

石川淳「葦手」論

――太宰治「道化の華」との比較を通して    宮ア三世(京都大学院生)

富士と相対すること

――太宰治「富嶽百景」と石川淳「マルスの歌」 若松伸哉(弘前大学非常勤)

 

   *終了後、発表者4名と参加者によるディスカッション

            【司会】斎藤理生(群馬大学)・杉浦 晋(埼玉大学)

 

2)総会

   議題は、次回研究会の企画など。

 

--------------------------------------------------------------------------------

*研究会終了後、懇親会をおこないます。(会場は当日お知らせします。)
--------------------------------------------------------------------------------

 

 

 


研究発表・要旨

 

昭和十年前後の新進作家──石川淳/太宰治と『作品』     松本和也

 

 本発表では、石川淳/太宰治といった固有名を前提とすることなく、彼らが新進作家として文壇に登場した昭和十年前後に視座を仮構した上で、改めて石川淳/太宰治の位置(価)をめぐる作家表象/作品主題を検討することで、話題提供に代えたい。

「文芸復興期」とも称される昭和十年前後は、芥川賞の設立などもあって、新進作家への期待が高まり、実際に様々な観点から言説化されていった時期でもある(拙著『昭和十年前後の太宰治』〔ひつじ書房,2009〕参照)。

手順としては、当時の新進作家をめぐる言説状況に関する見取り図を描くために、主要文芸誌・新聞文芸欄を視野に収めつつも、石川淳/太宰治も少なからずかかわった雑誌として、『作品』という雑誌を具体的な補助線と見立て、着目してみたい。

雑誌『作品』(1930〜1940)は、昭和十年前後に、立て続けに新進作家特集を組んでいる(「新進作家小説号」1935・7、「続新進作家小説号」1935・8、「新進作家短篇集」1935・12)。その当然の帰結として、ここには石川淳/太宰治ばかりでなく、坂口安吾や伊藤整といった昭和十年代作家、さらには今や文学史から忘れられかけているあまたの新進作家が登場していった。また、『作品』には、芥川賞や同人雑誌関連の記事・人物も多く登場し、新進作家をめぐる動向の鍵(の1つ)でもあったように思われる(さかのぼれば、昭和初年代以来、国内/外の文学動向と盛んな交渉があったことも、ここでの検討に有用である)。

第1回・第3回芥川賞の落選作家である太宰治(1909-1948)は、『作品』誌上には小説「玩具 雀こ」(1935・7)の他、エッセイ「もの思ふ葦」(1936・1)を発表している。一方、第4回芥川賞作家の石川淳(1899-1987)は、受賞作の「普賢」(1936・6〜9)をはじめ「佳人」(1935・5)などの創作に加え、各種エッセイも発表しており、この時期『作品』は文字通りの主舞台であった。

 こうした状況をふまえ、昭和十年前後の石川淳/太宰治をめぐる情報・コードをある程度ふまえた上で、石川淳・太宰治の位置(の特徴)を明らかにすると同時に、両者の位置から昭和十年前後の文学シーン(の一端)を照らし出せればと考えている。

 

 

「狂言の神」をめぐる〈生‐活〉の「間抜け」

――〈太宰治〉と芥川賞/〈芥川〉像の諸圏域     小澤 純

 

 石川淳と太宰治における〈新進作家〉時代を考えるとき、昭和十年一月に創設された「芥川龍之介賞」をめぐる力学を無視することはできない。第一回では太宰が候補に挙がり、「逆行」で「芥川式の作風」(瀧井孝作)を認められながらも、〈支持者〉佐藤春夫が推す「道化の華」は通過せず、また第三回では創作集『晩年』に期待したが、受賞資格は失われていた。そして直後の第四回、「アナトール・フランス流の形式美」を経て「形式のユダ」(小島政二郎)となった淳が、「逞しくて高い文学精神」(春夫)を評価され受賞する。二作家は共に、その習作時代に一旦は芥川文学を通過し、いわゆる《文芸復興》の中で〈作家〉として活躍していくが、ここで再び出遭った〈芥川〉言説はいかなる像を結んでいたのか。周知のように、芥川賞は、菊池寛が畏友の七回忌を機縁として「芥川の遺風」を伝える「純芸術風な作品」の発掘と「文藝春秋」の宣伝も兼ね、「故人と交誼あり且つ本社と関係深き人々」によって始められた。昭和初年代を席巻した改造社の懸賞への対抗意識もあったが、遡れば昭和四年、その第一席・宮本顕治「「敗北」の文学」が強固な〈芥川〉像を形成していたのである。しかし昭和八年には春夫編の詩集『澄江堂遺珠』が、翌九年からは普及版全集の刊行が第一回芥川賞発表頃まで続き、マルクス主義退潮後の〈不安〉と連動した記事・雑誌特集・研究分野からの応答も現れ、〈芥川〉像に明らかな変化が生じてくる。

本発表では、その言説状況を具に追いながら、昭和十年三月、いわゆる「鎌倉縊死未遂事件」によって「芥川宗」の〈新進作家〉としてメディアに登録された後、「狂言の神」において、作中人物として「改造」を経て「文学界」同人となった〈深田久彌〉を描くことの力学を考察する。諸テクストを繋ぐ「生活」・「作家」・「間抜け」等の鍵語の編成過程に焦点を当てることで、「狂言の神」に賭けられていた問題を改めて掘り起こしたい。

 

 

石川淳「葦手」論――太宰治「道化の華」との比較を通して     宮ア三世

 

 石川淳「葦手」(『作品』、昭和十年十〜十二月。)は、「この小説を書いている意識の直接的叙述が頻繁にあらわれ」る、「この小説を書く小説」であると言われている(鈴木貞美「『山桜』まで――石川淳作品史(2)」(『日本近代文学』、一九八六年五月。)。その点、少し前に発表された太宰治「道化の華」(『日本浪漫派』、昭和十年五月。)と同様の形式が取られているといえる。「道化の華」では、書きつつある書き手の生が描かれているからである(拙稿「太宰治「道化の華」論」『國語國文』、二〇〇七年十二月。)。本発表では、「道化の華」との比較を通して、「葦手」の語りの形式と物語内容について論じたい。

 「葦手」は「三つの時点に分断されている」という指摘がある(野口武彦「純粋散文の追求」、『石川淳論』、一九六九年二月。)が、「その都度、その時点以前に「わたし」が遭遇した事件を「わたし」に語らせるという寸法」が取られているというこの指摘を検証し直しつつ、まずは「葦手」の語りの形式を捉え直したい。また、「俗臭ふんぷんたる世俗の人間どもの活写」(鈴木貞美、前掲論文。)と纏められたり、「ストーリーの主要な一本はまさに一つの妾宅の崩壊をたどったもの」(神崎祥生「〈老女の物語〉――石川淳・昭和十年代の「小説の小説」の一断面」『国語と国文学』七二−六、一九九五年六月。)と指摘されたりしている、「葦手」の物語の内容についても考察を行いたい。

 

 

富士と相対すること―太宰治「富嶽百景」と石川淳「マルスの歌」  若松伸哉

 

 太宰治と石川淳は十歳の年齢差(石川が年長)がありながら、同時期に文壇に登場し、そして戦後は〈無頼派〉として一括りにされるなど、その共通性は少なからずこれまでも話題にされてきた。たとえばそれは、特に同じ1935年5月に発表された太宰「道化の華」と石川「佳人」の〈語り〉の形式の類似に代表されるような初期作品の共通性であり、終戦直後の作品の持つ雰囲気の共通性であった。

 本発表では、太宰および石川の初期作品あるいは終戦直後の作品ではなく、今まであまり比較して言及されることの無かった戦時下の作品に焦点を当ててみたい。というのも、太宰治がいわゆる〈生活上の破綻〉から立ち直る自らの姿を描いた(とされる)「富嶽百景」(『文体』1939・2〜3)では、さまざまなエピソードとともに〈富士〉の姿が作中に描かれることになるが、そのおよそ一年前には石川淳が「マルスの歌」(『文学界』1938・1)のなかで、やはり〈富士〉の姿を描いているからである。このときすでに日中戦争がはじまっており、「マルスの歌」は反戦的との理由により、掲載した『文学界』が発禁処分をうけるが、「マルスの歌」における〈富士〉の描かれ方はこうした事情にも通じるものである。

 また、「富嶽百景」と「マルスの歌」を比べたとき、〈富士〉だけでなく〈家族〉の描き方も問題とすることができる。「富嶽百景」は主人公が家族を獲得していく物語であり、一方の「マルスの歌」に登場する家族(三治・冬子夫妻)は妻の自殺により、その家庭は消滅する。

 〈富士〉や〈家族〉はともに戦時下において〈日本的なもの〉として言及されるものである。もちろん、太宰「富嶽百景」と石川「マルスの歌」の間には明確な影響関係は感じられないのであるが、こうした問題を一つの入り口として、両者の共通性あるいは差異を同時代と関わらせながら考えてみたい。

 

↑この頁の先頭へ戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送