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太宰治スタディーズの会・石川淳研究会 共催研究会 のお知らせ

(石川淳研究会 第14回研究会)     

            

太宰治スタディーズの会

石川淳研究会 運営委員会

 

太宰治スタディーズの会と石川淳研究会は、一昨年に引き続き、太宰治と石川淳のかかわりを検証すべく、以下のとおり研究会を共催します。
今回は、おもに敗戦後における両者、及び関係する諸作家の営為を論点として、3つの研究発表と討議をおこないます。
ご来聴も討議へのご参加も自由ですので、ふるってご参集下さい。

 

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 2011年9月25日(日) 13:30〜  

  青山学院大学・青山キャンパス 総研ビル(14号館)3階・第11会議室

  「総研ビル」は、青山通沿いの「正門」入ってすぐ右側の建物 アクセス

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1)研究発表

織田作之助『それでも私は行く』論

――「京都日日新聞」を手がかりに                  斎藤理生(群馬大学)

 

「風俗小説」再考

――太宰・井伏鱒二を中心に            滝口明祥(学習院大学)

 

石川淳『おとしばなし集』論            帆苅基生(青山学院大学院生)

 

   *終了後、発表者3名と参加者によるディスカッション

            【司会】松本和也(信州大学)・杉浦 晋(埼玉大学)

 

2)総会

   議題は、次回研究会の企画など。

 

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*研究会終了後、懇親会をおこないます。(会場は当日お知らせします。)
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研究発表・要旨

 

織田作之助『それでも私は行く』論

――「京都日日新聞」を手がかりに       斎藤理生

 

昭和21年春、『世相』『競馬』等の話題作により一躍文壇の寵児となった織田作之助は、勢いを駆って年内に三つの新聞小説を書く。その皮切りが『それでも私は行く』(「京都日日新聞」4月26日〜7月25日)である。この小説は、本文からして単行本(大阪新聞社、昭和22年3月)と「初出との間にかなりの異同があると推測され」ながらも(谷口優美「それでも私は行く」、浦西和彦編『織田作之助文藝事典』和泉書院、平成4年7月)、その実態は十分に検討されてこなかった。本発表では一篇を、初出紙を参照しつつ読み直したい。

 「京都日日新聞」は創刊号(昭和21年4月16日)で「近日から本紙上に織田作之助氏の新作小説「それでも私は行く」を連載いた」すことを予告し、「かつて学生生活を京都に送つて京都をよく知る作者が、特にこの小説創作のため京都に居を移して傑作をものせんとの情熱に燃えてゐる」と報じている。織田も予告内の「作者の言葉」で「古く、そして新しく、更に「女の都」であり学生の都であり、映画の都である京都をあますところなく描写したい」だの、「「紅燃ゆる」紅顔の美少年と共に、そして読者と共に、私はこの小説で京都の町町を歩きたい。再び京都へ還つて来た男の気持で、京都の町々を歩きたい」だのと語っている。

  京都を描いた小説で地元の支持を得ること。作家と新聞社の考えは一致していた。同紙はその後も織田や『それでも私は行く』に関する記事をしばしば載せる。小説でも紙面と対応する叙述がなされる。後に織田が単行本の「あとがき」で「京都の人はこれまで自分たちの土地を舞台にした小説が、土地の新聞に載るといふやうな経験がなかつたので、この小説はその意味で意外に多く読まれた」と述べたように、両者の協力体制は一定の成果を上げたといえる。

 しかし蜜月の期間は短かった。度重なる誤植や原稿の紛失に業を煮やした織田は、途中で構想を変え「小田策之助」なる存在を登場させざるをえなくなったという(前掲「あとがき」)。『それでも私は行く』の中に、同名の小説を書こうとする作家が登場する。結果、一篇は〈小説の小説〉となり、実験的な色合いが濃くなる。美貌の三高生・梶鶴雄が「京都の町々」をサイコロの指示するままに歩いて君勇・弓子・宮子・鈴子らと遭遇することで織りなされる物語は後景に退く。代わって前景化するのが、小田策之助と彼の「本当にあつたことを、そのまま、ルポルタージユ式に、出来るだけ小田自身の想像を加へずに書き、場所も人物も実在のまま使ふといふ奇妙な計画」で書かれる小説である。

  ただ、この「計画」は最終的に挫折する。その挫折にはどのような意味があるのか。また、〈小説の小説〉は同時期の織田の他作品と共通する仕組みであると同時に、石川淳や太宰治らが昭和10年前後に発表した作品群を想起させる面もある。彼らとよく似た試みを周回遅れでなすことに、いかなる狙いが看取できるのかも考えたい。

 

 

「風俗小説」再考

――太宰・井伏鱒二を中心に        滝口明祥

 

戦後、花田清輝などを中心として「アルチスト」(芸術家)と「アルチザン」(職人)の対比が頻りに行われた。後者の代表として挙げられるのは丹羽文雄であり、「風俗小説」の書き手たちであったことは言うまでもない。「アルチスト」と「アルチザン」の区分は、(理念としての)「戦後文学」と「風俗小説」の区分とほぼ重ねられて理解されたわけであり、戦争によって一時期勢いを失った「風俗小説」が1948年以降再び復調していく中で、丹羽と中村光夫との間で風俗小説論争が行われ、中村の『風俗小説論』(河出書房、1950年)が書かれたりもしている。批評家が「風俗小説」の通俗性を難詰すれば、「風俗小説」の書き手たちは圧倒的多数の読者を背景に、「戦後文学」の観念性を揶揄したのだ。そのような戦後における文壇の動向を踏まえたとき、興味深い位置にあるのが太宰治と井伏鱒二という二人の作家である。

 太宰は、現在から見れば意外なほどにこの時期、「アルチザン」であると作家からも批評家からも認定されている。もちろんその場合でも丹羽文雄などとは違う「アルチザン」であるとされるわけだが、それは太宰の「道化の華」の中にある言葉を使って「市場の芸術家」と言い換えてもいいようなものだろう。もはや単純な「アルチスト」であることが不可能であると悟った「アルチザン」こそが太宰なのであり、「風俗小説」を批判した批評家たちに欠けていたものが「読者」についての意識であったことも明らかとなるだろう。

 また井伏は、戦時下において『多甚古村』という「風俗小説」によって流行作家の仲間入りをした作家であり(拙稿「「庶民文学」という成功/陥穽―文学大衆化と井伏鱒二」、「昭和文学研究」20113参照)、戦後においても『貸間あり』や『本日休診』のような「風俗小説」こそが代表作と見なされてきたが、「遥拝隊長」の発表以後、やや評価を変えていくこととなる。それを決定的にし、「風俗小説」とは違うラインから井伏作品を高く評価したのが、「風俗小説」の書き手たちと完全な敵対関係にあった中村光夫であったことは興味深い。「風俗小説」(≒「中間小説」)が隆盛を誇る一九五〇年代において、井伏はそれらと微妙な差異化を図られることによって独特の位置を占めていくことになる。

 一九三〇年代から続く、文学大衆化やそれに伴う「文学」や「芸術」という概念の変容において、「風俗小説」という問題は避けて通れない。本発表では戦後における「風俗小説」を、太宰や井伏を軸に考えてみることによって新たな視角を探ることとしたい。

 

 

石川淳『おとしばなし集』論        帆苅基生

 

 石川の文学活動の後半の仕事は〈歴史〉あるいは〈神話〉や〈伝説〉など、人々に知れ渡った出来事を改変したり、あるいはその真相は実はこういうことだったのだということを描く〈偽史〉〈虚史〉と呼ばれる小説であったと言えるだろう。

 そのようなものは五〇年代後半から現れはじめ、この頃から石川は歴史的素材を用いた小説を中心に書くようになる。前述の通り、一九五八年に発表された「八幡縁起」以降は歴史的空間を舞台することだけに留まらず、ここでは歴史的題材を用いながらも一般的に知られている〈歴史〉にはないことを描いた。これらは言わば〈歴史贋造〉の小説であるといえる。「至福千年」、「狂風記」など後期を代表する長篇小説もこれらに連なるものとして挙げられ、これらは石川の後半の文学活動を考える上で重要なものと言える。

 「八幡縁起」に先立って石川は「古事記」の現代語訳に独自の注釈をつけ「新釈古事記」を東洋経済新報社刊行の雑誌『総合』に連載している。この古典の翻訳とも批評とも、あるいは創作とも言えないものが書かれたことによって、新しい〈歴史贋造〉の小説群が生まれたことは注目すべきことであると考える。「新釈古事記」は〈神話〉であり〈正史〉であるとされた「古事記」をパロディにしたと言うことができるだろう。このようにパロディにすることで石川独自の〈歴史〉や〈国家〉に対する批評意識が含まれるようになり、後の〈偽史〉と呼ばれる作品が生まれる上でその手法は不可欠だったと言える。

 それではこのようなパロディを通して自身の批評意識をこめるという手法は「新釈古事記」まで現れることがなかったのかと言うと実はそうではない。石川は「新釈古事記」を書く以前に『おとしばなし集』と題された作品集に後に収録されるものを断続的に書いている。これらは広く読まれていたりあるいは誰もが話を知っている童話や歴史人物伝をパロディにして、〈おとしばなし〉の題名が示すとおり〈オチ〉をつけたものになっている。

 この『おとしばなし集』に関しては先行研究に蓄積があまりなく、現在までに充分に論じられているとは言えない状況だと言えよう。しかし石川の後半の文学活動が〈歴史〉や〈神話〉をパロディにして〈偽史〉を描くということを中心にして来たと言いかえれば、パロディという手法を用いて書いたこの『おとしばなし集』に収録されたものを改めて検討する必要があるように思えて仕方がない。

 石川がこのようなものを書こうとしたその背景を検討することは重要なことであると考える。石川がパロディにした部分を丹念に検討し同時代の出来事や言説と比較することでそこに書こうとしたことを考察していきたい。またこのようなパロディの手法は用いたものは、言うまでもなく石川淳だけでなく例えば太宰治の「お伽草紙」も先行するものとして挙げられる。このような先行する〈パロディ作品〉と比較することで石川の独自性が見えてこないか検討していきたい。

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