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石川淳研究会第15回研究会印象記   大原祐治

 

 今回の研究会は、石川淳を主たる研究対象としてきた若松伸哉氏と、坂口安吾を研究対象としてきた山根龍一氏、二人の「焼跡のイエス」に関する論文が2012年に相次いで発表されたことを受けての企画であった。論文執筆者の二人から、論文の狙いについての説明や補足を中心とした発表が行われた後、さらに太宰治を主たる研究対象としてきた松本和也氏によるテクスト読解にかかわる問題提起的な発表が行われ、その後、ディスカッサントである山口俊雄氏を交えた討議が行われた。

 若松氏と山根氏の論文は、いずれもテクストに描き込まれた同時代コンテクストの再確認を中心に構成されたものであり、石川淳研究に限らず日本近代文学研究一般における近年の研究動向に沿ったものであると言える。若松氏は、同時代において同じく焼跡・東京の浮浪児を描いた志賀直哉の「灰色の月」を補助線として取り上げ、両作品に対する同時代評を丹念に比較・考察することを起点に、「焼跡のイエス」における語り手「わたし」が、浮浪児との接触を介して敗戦直後の状況に対峙する主体へと変容していくという物語を析出する。山根氏は、浮浪児や闇市といった敗戦直後におけるアナーキーな存在を強権的に管理・統制する一方、密かに日本へのキリスト教(的倫理)の導入を志向し、統治者としての自らを救世主=キリストに見立てていた節も見られるGHQ/SCAPに対し、「焼跡のイエス」としての浮浪児が痛烈なカウンターパンチを見舞う物語として、この小説の批評性を浮かび上がらせる。

 一方、松本氏が提示した議論は、若松・山根両氏の論文も含め、従来専ら浮浪児=「イエス」と語り手「わたし」との対峙に重点を置きつつ、あくまで歴史性を重視し同時代表象との連続性の中で論じられてきた感のあるこのテクストについて、改めて「焼跡」という言葉そのもの、とりわけテクストに散見される「痕/跡」という言葉そのものが喚起するイメージに正面から向き合うことを求めるものだった。これはすなわち、石川のテクストには同時代状況への接続をいったん留保ながらテマティックな分析を行ってみる必要があるし、石川のテクストにはそれだけの強度があるはずだ、という問題提起である。

 若松・山根両氏と松本氏との間には一見、大きな差違があるようだが、その後の議論をうかがう限りでは、むしろ両者の議論を接続することで、「焼跡のイエス」をめぐる議論は、石川淳研究というタテ軸へも、占領期文学研究というヨコ軸へも広がりを見せるように思われ、ディスカッサントの山口氏を交えた議論は総じて生産的なものであった。とりわけ、山口氏から提示された戦後天皇制をめぐる問題との接点は、この作品が昭和天皇のいわゆる「人間宣言」から約半年後というタイミングで発表されており、作中における闇市の描写として「例の君子国の民といふつらつきは一人も見あたらず…」といった記述が見られることとも合わせて、改めて考察されてよいのかもしれない。また、会場からの発言にあったように、語り手「わたし」が世相に背を向けるようにして太宰春台の墓所を訪ね、その墓石の墓碣銘を拓本に取ろうとしていたことの意味を、永井荷風などを参照しながら考察することで見えてくる問題なども、改めて接続し直すことができるのかもしれない。

 既発表論文を起点としつつも、単なる合評会にとどまらず密度の高い議論が展開された研究会は、とても刺激的な場であった。このような形態での研究会の開催は、小規模の学会・研究会のあり方について、一つの有意義なモデルを示すものであったようにも思う。

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