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第4回石川淳研究会 印象記         木下啓 

 今回の石川淳研究会(2005年9月17日、於愛知淑徳大学星が丘キャンパス)は、日本近代文学会東海支部と合同で開催されることとなった。地味ながら着実な活動を続けてきた(つもりである)石川淳研究会としては初の他流試合である。テーマは『森鷗外』。依然として孤高狷介な作家というイメージの強い石川淳を外部との関係に開いていくという意味では、格好のテーマであり、題材である。

 司会の酒井敏氏によれば、森鷗外が盛んに読まれる時代は不幸な時代であるとのこと。アジア太平洋戦争勃発前夜のつらい時代に書かれた石川淳の鷗外論を、刺客騒ぎの総選挙やら愛知万博やらの喧騒を尻目に読むというのは、なかなか味のある企画であろう。

 「石川淳『森鷗外』をめぐって」と題されたシンポジウムは二部構成でおこなわれ、前半は山口徹氏、若松伸哉氏、林正子氏の発表、後半は三名の発表を土台にした討議のかたちをとった。まずは前半の発表の印象から。

 山口徹氏の発表「鷗外―石川淳―鷗外 批評と実践」は、まず『森鷗外』の三つの章を、T、「史伝」に対する突出した評価、U、「抒情詩人」として鷗外精神若さ、V、翻訳家としての鷗外、特に「無精神の大事業」たる『諸国物語』の訳業における鷗外の特質である「空虚」の指摘と、その「空虚」を精神の運動によって刻々と埋めてくという石川淳独自の小説理論の揚言による鷗外「史伝」の評価軸の設定、と整理し、『森鷗外』が「史伝」評価の結論をまず提示した後に、編年体、課題別に鷗外の業績を追うことで再び「史伝」評価に戻るという緻密な構成を持っていることを提示した。そのうえで『森鷗外』で示された「速度」や「衝突」、「空虚」、「史伝」的手法といった批評的観点が、@先行者(鷗外と荷風)との間に生じる「速度」(例えば「名月珠」の自転車)、A「空虚」な大地(他者の肉体)との「衝突」(「焼跡のイエス」での浮浪児との格闘など)、B「史伝」的手法(「古言」的言辞)の「排斥」と異質なコードの導入(例えば「焼跡のイエス」での碑文の拓本の放棄と、聖書モチーフの導入)という具合に、小説創作の場で用いられていると分析した。

 『森鷗外』を手際よく整理し、そこから導き出された批評的観点が戦後作品等に応用されていることを具体的に指摘した山口氏の分析はまことに鮮やかで、まるで名人の包丁捌きを見ているようであった。特に「古言に新たなる性命を与える」云々を逆手に取ったBの分析を聞いているうちに、古言や俗語の入り混じった、どこか時代錯誤なふうにも思える石川淳の文体が、かえってモダンな構築物にすら思えてきたほどである。「空虚」の概念がはっきりしないとの質問もあったが、用語の定義はむしろ石川淳研究者側の課題であろう。

 そう評価したうえで、石川淳の一研究者として質問を一点だけ。山口氏の発表を突き詰めると、『森鷗外』で示された観点はそれ以降の小説(批評的実践)の源泉ということになる。しかしながら、例えば「空虚」は、処女作「佳人」ですでに「聖痕示現」(ついでに言えばこの語も「異質なコード」の導入?)として示されている。『森鷗外』を新たな小説理論の胚胎の書と見るのか、それとも「佳人」「普賢」における小説理論の深化・脱皮の書と見るのか、石川淳の小説家としての出発の問題とも絡むので、機会があれば伺いたいと思う。

 次は石川淳研究会を代表して若松伸哉氏の発表「〈歴史と文学〉のなかで―石川淳『森鷗外』における史伝評価について」。若松氏は、昭和初期からの歴史意識の高まりを受けて、文壇では『森鷗外』の書かれた昭和十六年前後に〈歴史と文学〉の問題が俎上にのぼり、歴史小説、あるいは鷗外の歴史小説・史伝物についての言及が盛んであったことに着目。高木卓、小林秀雄、岩上順一といった当時の代表的論者の歴史小説観がいずれも過去の歴史を現在にどう利用するかという立場に立っていたのに対して、石川淳は書かれた歴史の恣意性・政治性および虚構性を強調していることを指摘。そのうえで鷗外の史伝物を歴史小説ではなく、あくまで小説として評価する石川淳の態度は、小林秀雄らの歴史小説観への挑戦的な批評となっており、ひいては戦時下の抵抗の姿勢に重なるものであるとする。

 若松氏の発表に対しては、当時と現在の歴史小説についての概念に違いがあるのではないか、などの質問も寄せられたが、『森鷗外』の同時代と関連する側面を示したかぎりではよくまとまったものであった。強いて不満を言えば、若松氏の見解が“戦時下の抵抗文学者”なる石川淳神話から一歩も出ていない点であろうか。“抵抗”の意義を軽んずるわけではないが、神格化されたイメージを再検討することもそろそろ必要なのではないか。例えば、小説ではあれほどパロディ的手法で同時代の文学を相対化している石川淳である。当時の歴史小説観への批判についても同様の手法を取っている辺りに、石川淳の“抵抗“の特質と限界も見えるのでは。もっとも、若松氏の発表にそこまで要求するのは無い物ねだりであろうが。

 最後の林正子氏の発表「石川淳の鷗外翻訳文学論―〈批評〉としての翻訳の意義―」は、

石川淳が鷗外の翻訳、特に『諸国物語』の翻訳を批評することで「小説とはなにかといふ考に革命がおこつた」と洞察している点に注目し、同じく『諸国物語』から影響を受けた芥川龍之介と石川淳とを対置させたり、あるいは鴎外と芥川との歴史小説観の違いを示したりしながら、鷗外の翻訳の影響について論じた。

 林氏の発表は、鷗外を媒介にして芥川と石川とを対照することに論点を絞ったほうが、ずっとすっきりとした内容になったであろう。『諸国物語』の物語内容に影響を受けた芥川と翻訳という営為がもたらす物語言説から影響を受けた石川との対比をはじめ、「山椒大夫」めぐる両者の正反対の評価や、石川が激賞する『渋江抽斎』に芥川が「恐怖」を感じていたことの指摘、『森鷗外』の「二葉亭の翻訳がどんなに深刻でも、ひとをして死に至らしめるような影響力は持たない」との一節は芥川の死を意識しているのではないかとの推測など、両者の比較から導き出される卓見が随所にあったからである。それだけに、全体としては手を広げすぎてまとまりの欠ける印象に終わったのは残念。これは林氏がまとまった発表をするよりも議論の叩き台提出しようとするスタンスであったことにもよると思うが、『森鷗外』からのかなりの引用を含んだ枚数の多いレジュメに足を取られたのも原因であろう。

 話は逸れるが、山口氏といい林氏といい、石川淳に詳しくない参加者に気を遣うこと大であった(二人とも発表やレジュメのかなりの割合を『森鷗外』からの引用に費やしていた)。常識的に考えて圧倒的マイノリティなのは石川淳研究者側である。共催にあたって、あらかじめ『森鷗外』のポイントや問題点を示したレジュメ等をウェブサイトで公開したり配布したりする程度の下準備は石川淳研究会側でしておいてもよかったのではないか、と運営委員ので唯一のナマケモノである筆者もこの点は反省している。今後共催場合課題としたい。

 会の後半は、三名の発表者への質疑応答を中心にして、歴史小説の問題をはじめ、石川淳と同時代や先行の作家との関係などについての活発な討議がおこなわれた。ただ、前半の発表が長引いたことにより、予定よりも討議の時間がかなり削られてしまったのが残念である。シンポジウムを通して、司会進行役酒井敏氏見識高さとさりげない気配りが光っていたことも最後に付け加えておきたい。

 三名の発表者の内容がそれぞれ、小説理論、同時代との関係、翻訳の影響、という具合にバランスが取れていたこともあり、今回のシンポジウムは有意義な会であったと思う。少なくとも筆者としては、石川淳研究者だけでは気づかないような指摘を聞くことができた点で、東京から日帰りで名古屋へまでっただけの価値はあったと感じている。ただ、欲を言えば、もう少し鷗外研究者側の本音を聞いてみたかった気もする。『森鷗外』自体への批判などはないのだろうか。例えば、石川淳は鷗外の「半日」についてはいっさい触れていないが(夫人の意向で最初の全集からは省かれているという事情はあるにせよ)、この点などどうなのだろう。せっかくの他流試合、石川淳研究者が面食らうような太刀筋も見てみたかった、などというのは外野の無責任な放言に過ぎるだろうか。次の機会に期待したい。

 

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